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富岡を去り、富岡に戻って、自分の好きなことを貫く

遠藤真耶
合同会社knot 代表社員

webマガジン「knot」創刊にあたって、私「遠藤真耶」を誰かにインタビューしてもらおうと考えた。自分で自己紹介文を書くこともできたけれど、人からどう見えているのだろう?という興味もあり、誰か知り合いのライターさんに私自身をインタビューして記事にしてもらおうと決めた。

 

この地域に深く“関わっていない人”で、私を知っている人がいい。「復興」や「震災」というワードと、富岡で暮らす私を紐づけてほしくなかったから。もちろん、それらはこの地域で生まれ育ち、ここで暮らす限り、避けて通れない話ではある。でも、そればかりにはしたくない。私をひとりの人間として、見て、知って、書いてくれる人がよかった。

頭に浮かんだのは、東京時代の大先輩、森永泰恵さん。短い期間だったが、同じ会社で働いていた時期もあり、独立してフリーランスになったのも同時期だった。心の底から信頼している女性だ。

 

森永さんの目には、私はどんな人間に映っているんだろう? 上がってきた原稿を読んで、自分のことなのになんだか自分じゃないみたいで、恥ずかしさもあった。自己認識と他者の目に映る私は違うんだなぁと、とても新鮮に感じた。

 

これを読んでいるあなたの目には、私はどう映っていますか?

子どもの頃の遠藤さんと今の遠藤さんを6つのキーワードで紐解く

学生時代:大人の期待に応えることが苦しかった

「子どもの頃、富岡という町が好きではなかった」
遠藤さんが生まれ、18歳まで育った富岡町は彼女にとっては閉鎖的で、あまり居心地のいい場所ではなかった。

彼女は幼い頃から読書と作文が好きだった。小学一年生の頃、担任の先生に作文を褒められ、そこから文章を書くということに喜びを感じるようになる。中学に入ると灰谷健次郎にハマっていたという。

学業も運動もそこそこできた。難関をくぐり抜けていわき市の進学校へと進んだが、彼女は「高校に入ってから落ちぶれました」と笑う。大学受験を見据えた勉強の毎日に嫌気がさし、学校生活が面白くなかったのである。

思い起こせば習い事も塾も、周りの人たちが通っているから自分も……と同調しただけで、心からやりたいと願ったわけではない。「こう言えば、こう行動すれば、親も先生も喜ぶだろうな」と計算していた気がする。高校も、自分が行きたいところではなく、親が行って欲しいと思っている学校に決めた。徐々に周りの大人たちの期待通りに生きなければと考えることが、苦しくなってきていた。

そのとき、一筋の光が舞い降りた。某バンドとの出会いが彼女の退屈な日々を劇的に変えてくれたのである。

上京:自分のことを誰も知らない東京で暮らしたい

その日から生活が180度変わった。そのバンドを応援し、ライブに足を運ぶことが生きがいとなった。当時は今のようにネットもスマホもない時代。ファン同士がつながるには雑誌を介して「文通する」という超アナログな方法しかない。

遠藤さんは地道にファン同士のつながりを広め、私設ファンクラブを設立。会報誌を手書きでつくり、印刷して全国に数十人いた会員たちに送っていた。それが楽しくて仕方がなかったという。「この会報誌づくりが、その後、編集者になるきっかけになったのだと思います」と彼女は語る。自分で作ったものを誰かが読んでくれる。それは言葉では言い表せないほどの楽しさと感動であったに違いない。

親の期待に応えようとすることから、そして人と人とのつながりが密過ぎるがあまり生きづらさを感じる富岡町という場所から、一旦、離れたい。自分のことを誰も知らない町でひとりになりたい。そう思った遠藤さんは、高校卒業後、東京に行くことを決意。

お父様は「お前は言い出したら聞かねえからな」と言いながらも背中を押してくれた。お父様自身、かつて東京で働こうと思いながらも「長男だから」という理由で帰郷せざるを得なかったという。きっと若い頃の自分と娘の姿が重なり、好きなことをやればいい、そう思ってくれたのだろう。

就職:出版社に入り、念願だった編集者に

音楽系専門学校の音楽ライター科に入り、東京での生活が始まった。某バンドのファン同士で知り合った友人と3人でシェアハウスに住み、「ようやく自分らしく生きるぞ!」と、心踊らせた遠藤さんは2年間、バイト代をライブに全部つぎ込む生活を送り「黄金期」を迎えた。

しかし、時は就職氷河期。このまま就職するのも……もう少し遊んでいたい……などと考え、就職を断念。1年の浪人生活を経て東京の大学に進学した。よくご両親がそれを許してくれたと思うが、「今考えたらちょっとあり得ないですよね。自分の子どもにそんなことを言われたらぶん殴りますよね。両親の理解とサポートにただただ感謝です」と彼女自身も振り返る。

文学部に入った遠藤さんは書籍の編集者になりたいと考えていた。しかし、大学を卒業するときもまた、就職という厚い壁が立ちはだかった。それでもあきらめずに就活を続けた結果、美容専門誌の出版社に就職することが決まった。子どもの頃から読書好きで、中学生くらいから「将来は編集者になりたい」と考えていたことがようやく叶った。

編集長:編集長となり、多くのクリエイターと共に過ごす

就職したものの、美容は遠藤さんにとって興味のあるジャンルではなかった。しかも、一般化粧品であればまだなじみがあるが、全国の美容師さんに向けて発信する美容専門雑誌をつくるというのは未知の世界であった。

にもかかわらず入社から1年弱でその雑誌の責任者に任命されたのである。先輩たちが次々に退職していったため、やむを得ず押し上げられた部分もあるが、彼女への期待値が大きかったのであろう。本来であれば編集者として、記事を書くライターとして、まだまだ勉強しなければいけない時期ではあったが、彼女は自分に与えられた仕事を懸命にやってのけた。誰にも教わることのできない環境の中、手探りで必死に食らいついた。たくさん苦い思いもしながら。

名実共に編集長となった頃には、企画を立て、美容師をはじめ、スタイリストやフォトグラファー、メイクアップアーティストなど外部スタッフの方々と一緒に記事をつくり上げていくことが楽しく、やりがいを感じられるようになっていた。「素晴らしい方たちと出会えて、本当にありがたかったですね。今の私があるのは、みなさんのおかげです」と語る。

Uターン:結婚を機に福島へ移住。地域おこし協力隊に着任

2011年、東日本大震災が発生し、ご両親やお姉様とはなんとか連絡がついて無事が確認できたものの、その後1カ月ほどは心がまったく動かなかったという。辛いという気持ちに蓋をしていたのだろう。「きっと大丈夫」そう自分に言い聞かせ、苦しさと闘いながら東京で仕事を続けた。震災から数ヶ月が過ぎ、あれほど富岡町には戻らないと思っていたのに、気がつけば故郷に思いをはせる自分がいた。けれど、そんな思いも、がむしゃらに仕事することで打ち消していた。

時は過ぎ、35歳になったとき、一大決心をする。このまま同じ環境で仕事を続けても未来が見えない。今こそ新しいステージに踏み出すときだ、と。思い切って退職し、フリーランスとして活動を始め、仕事が軌道に乗ってきたときに、なんと! 結婚することになった。結婚する気はない、ひとりで生きていこう。そう思っていたのに、である(筆者もそう聞いていたので結婚すると聞いたときは仰天した)。地元の知り合いを通じて出会い、あれよあれよと話が進み、結婚と同時に東京を離れ、いわき市へと移住した。

山に沈んでいく夕日を見たとき、「あぁ、戻ってきたんだな」そう思った。東京では見ることのできない光景、夏の匂い……。まさにそれは遠藤さんの原風景であった。しかし、18年ぶりに帰郷したところで知り合いもいない。車の運転もできない。ご主人が帰宅するまでしゃべる相手といえば愛猫の虎太郎くんだけである。何かやらねばと思っていたときに自宅マンションが水害に見舞われ、これはもう、動き出せという神様のおぼしめしと思い、富岡町の起業型地域おこし協力隊に着任することになった。

今:笑顔で、楽しく暮らしたい

2023年、富岡町にマイホームを建て、猫ちゃんは4匹になった。福島にUターンしたのは導かれるように結婚したことと、被災した故郷のことがきっかけのひとつになってはいるが、復興に向けてこぶしを振り上げながら頑張るつもりはない。震災・原発・復興と彼女のUターンはあまり関係がないと言っていいだろう。編集者やライターという「好きなこと」を仕事にし、楽しく暮らしていきたいだけなのだ。そうすれば笑顔で暮らす人も増え、笑顔の連鎖こそが復興につながる。だから、まず自分がやりたいことをやって、この場所での暮らしを楽しみたい、遠藤さんはそう考えている。

帰郷して5年。正直、子どもの頃に感じていた「富岡町のイヤなところ」を再び感じることもある。かつての同級生で帰郷できている人はほぼいない。ガラッと住人が入れ替わり、彼女自身も移住者である。今まで培ってきた仕事のやり方が通じないときもある。それでも遠藤さんは前を向いて自分のペースで歩きだした。

 

「子どもの頃にやっていたことや感じていたことを、もう一回体験してみたいんです。大人になった自分が、何を見て何を感じるのか。もう一度、富岡町を見つめ直したい」と彼女は語る。この土地に戻ってきたお年寄りたちの話を聞いて、生活の知恵や文化を次世代につないでいきたい。子供の頃好きではなかった富岡町を、大人の目線でもう一度見直したいという。嫌いの裏側に富岡町への深い愛情があるに違いない。

 

遠藤さんはお父様の言うように自分の意思を曲げない。そこがいいところだ。これからの活動が本当に楽しみである。

文/森永泰恵 写真/川口紘
2024.04.01

フォトグラファー:川口 紘(かわぐち こう)

1984年、東京生まれ。早稲田大学卒業後、2008年にGO-SEES入社。2010年にGO-SEES退社後、渡英。2011年、フリーのアシスタントを経て、帰国後に独立。現在はビューティ、ファッション、ポートレートを軸に活動中。https://www.instagram.com/kokawaguchi/

 

ライター・エディター:森永 泰恵(もりなが やすえ)

1971826日生まれ。新潟県出身。アイドル雑誌編集部を経て2004年、美容業界誌PREPPYに入社。単行本の編集やSP制作を経た後、PREPPY編集長を約6年務め、2016年にフリーランスへ転向。紙媒体やウェブメディアで、インタビューやサロンを取材、原稿執筆をしている。