interview 02

『富岡劇場』を最前列で観ている

中久喜 匠太郎
『富岡劇場』の一番の観客

富岡町にUターンしてからというもの、「富岡町が好き」という人に何人も出会った。私は、こんな町から一刻も早く出ていきたい! と、東京に進学した人間だから、「え? この町が好き? 本当に? どこが??」と正直思っていたし、今でも思っている。移住してきた人や、富岡に関わってくれている外の人は、どんなところに魅力を感じてくれているのか。それをずっと知りたいと思っていた。もしかしたら、二度と戻ってこないと決めて町を出て行ったのに、なぜか戻ってきてしまった自分自身を納得させるため、言い訳を探すためという不純な動機かもしれない。「この地域の魅力を教えてほしい」。意外と、私にとって切実な願いなのである。

誰に話を聞こうか、考えたときに一番に思い浮かんだのが中久喜さんだった。東京から、もう何度も富岡町を訪れてくれている。中久喜さんの目には、富岡町がどう映っているのか知りたい。なぜ、そんなにも富岡町を大切に思ってくれているのか知りたい。教えて、中久喜さん。

震災をきっかけに、浜通りへ

―中久喜さんは、富岡町にしょっちゅう来てくれていますよね。やっぱり、きっかけは震災ですか?

中久喜:そうですね。その前は富岡町という名前も知りませんでした。僕、電車に乗るのが好きなんですけど、仙台に行くにも新幹線を使っていたので、福島の沿岸部は通ったことがなかったんです。(※沿岸部は「ひたち」という特急は通っていますが、新幹線は通っていないのです)

いつか常磐線に乗って行きたいなと思っていたら、震災がきてしまった。どんな駅があったんだろう?って調べたときに「富岡」という名前を初めて見ました。その隣の「夜ノ森(よのもり)駅」という名前も、なんて美しい名だろうと思って。そんな場所に、もう入れなくなってしまったのかとショックを受けましたね。

―震災後、初めて訪れたのが富岡町だったんですか?

中久喜:最初に行ったのは、広野町ですね。2012年の7月だったかな。富岡あたりは、まだガッツリ警戒区域だったので、常磐道も広野町までしか通れなかったんですよね。

車でひとりで向かったんですけど、パトカーも走り回ってるし、物々しすぎて。そんなところに、他県ナンバーの車が入ってきただけで「なんだこいつ」って目で見られてました。そのときは色々怖すぎて、30分くらいで帰っちゃいましたね。

―私は、当時は東京で暮らしていたので、実は震災直後の古里の姿を自分の目では見ていないんですよね。心が止まっちゃってたというか。直視したくなかったというか。現地に向かうということもできたはずなんですけど、そうせず東京で普通に働いてました。

中久喜:あのときの東京って、6~7月あたりから復興、復興って言い始めましたよね。「被災地では復興が始まっていて、ここにも商店街ができました」みたいな。それはもちろん喜ばしいことだし、福島以外の被害を矮小化するつもりは全くないんですけど、「ちょっと待って」ってなったんですよね。「福島、どうなん?」と。厳しい言葉になっちゃうけど、日本中で臭いもんに蓋をしようとしている感じがして、むちゃくちゃ違和感がありました。

それで、これはもう自分で行って確かめないとダメだと思ったんです。でも、なかなか行く機会を作れなくて、やっと2012年に広野町まで行けた。そして、現地の物々しさに怯んで、30分で帰っちゃったという。富岡町には2013年に初めて行きました。リベンジじゃないけど、行けるところまでもう一度行ってみようと思って。

衝撃の光景。そして出会った熱い人たち

―今となっては、町のみんなが中久喜さんのことを知ってるくらい、富岡に足を運んでくれていますよね。最初の頃は、富岡のどんなところに行きました?

中久喜:津波で流された状態のままの富岡駅を見ました。あれを見て、もう震えが止まらなくて。人が住まなくなってボロボロになったお家もいっぱいありました。あと、以前は田んぼや畑だったであろう土地に、セイダカアワダチソウがダーーーッと茂っていて。ひっくり返った車がその辺にゴロンゴロンしてたり。それを見て、もう信じられないくらい嫌な汗をかいていました。本当に怖かった。

でも、そんな中でも、コスモスが咲いていたりとか……。震災前の生活の名残りがいろいろ見えてきて「なんて美しい町だ」と。そう感じたとき、この町をずっと定点観測していこうと思ったんです。日本中、原発事故のことや震災のことに蓋をしようとしている。それって、“復興”とはちょっと違くありませんか?という発信をしました。富岡町を訪れた初期の頃は、そういった政治的というか、社会的使命感で発信していましたね。昨日、何年も前の投稿を振り返って見てたんですけど、わりに尖った発信をしてましたね(笑)。メッセージ性が強い写真とか。

―なぜ、一番最初に訪れた広野町ではなく、富岡町だったんでしょう?

中久喜:地元の人と繋がりができたのが、富岡町だったんです。この地域の人たちと人間関係を構築したいと思っていたわけではなかったんですけど、結果そうなれたのが富岡町だったという。

―出会う“人”って重要ですよね。

中久喜:重要ですよ! 富岡で出会った人たち、みんなむちゃくちゃ熱い! これから町をどうしていきたいかとか、「俺は絶対、富岡町を諦めない!」とか話してくれた人がたくさんいます。熱い人がいる町だなと思って。当時は、絶望的な町の状況と、それでも諦めない熱い人たちがいるという希望の芽のアンビバレンスに、いつも苦しみながら車で東京まで帰っていたんです。そんなとき、歩道橋に『富岡は負けん!』って書かれた横断幕がかかっているのを見て、僕も「おーーーー!!!」って熱くなりました。

―地元の人たちと、そんな交流があったんですね。昨年の3月11日にも、富岡に来てくれてましたよね。

中久喜:毎年3月11日は、富岡に来ています。車で町を走りながら、2時46分をどこで過ごそうかなって考えていたら、知り合いの農家さんに「中ちゃん、中ちゃん」って呼ばれて。「前に言ってた、川内村の蕎麦屋行こう!」って(笑)。「ちょっと待って、マジで?」って(笑)。

―2時46分に富岡以外の場所に(笑)。

中久喜:そう(笑)。結局ふたりで蕎麦屋行って。もうざっくばらんすぎて楽しいですね(笑)。

“不幸探し”はやめて、応援する側に

―お話を聞いていると、中久喜さんはやっぱり“人”に惹きつけられたんだろうなぁと感じます。

中久喜:今となってはそこですね。2016年くらいまでは、社会的な使命感をもって発信していましたけど。「復興、復興って言ってるけど、ちょっと待ってくれ。まだこういう場所があるんだ。復興を語ることさえ申し訳ないと感じる場所があることを知ってほしい」と。以前は、そういう気持ちが大きかったんです。

でも、避難指示が解除されてきて、『さくらモールとみおか』やコンビニもできて、ホテルもできて。町は少しずつ進んでいるのに、僕がやっていることって簡単にいうと“不幸探し”だったんですよね。これ、足引っ張ってるだけなんじゃないかという気持ちになってきました。それが2016年頃。そこからは、以前ほど強いメッセージを発信することはなく、迷いながらも富岡町に通って写真を撮ったりしていました。富岡の人と繋がることで、僕は完全に応援する側になりましたね。特に2020年以降は、“不幸探し”もやめようと決めて。明るい写真ばかり投稿するようになりました。

―地元民としては、それが本当にありがたいです。中久喜さんがおっしゃったみたいに、私も“不幸探し”のようなことがいっぱいあるなと感じていて。特に3月11日が近づくにつれ……。

中久喜:もう、新聞の見出しとか想像つきますもんね! 「止まった時間」とか(笑)。でも、そこに目を向けることも大事ですけどね。そういう人もいていいし、そうじゃない発信をする人がいてもいいですよね。

―このwebマガジンを立ち上げたのも、それが理由のひとつなんです。東京からUターンして、しかも地域おこし協力隊もやって、となると、どうしても復興と紐づけられちゃう。それがしんどくて。私はただ、富岡町が地元っていうだけ。地元に戻ってきただけなんですけど。

中久喜:僕も、こうしてしょっちゅう富岡に来ていると「復興のお手伝いですか?」って今でも聞かれます。説明するのが面倒なので「うん」って言っちゃってますけど(笑)。

アクターではなく、観客でいたい

―ここまで富岡町に深く関わっていると、いっそ移住すればいいのにって言われません?

中久喜:言われます。みんなそう言ってくれますね。

―移住せず、東京から通うということを選んでいるのはなぜなんですか?

中久喜:東京でしかできないことって意外と多いんですよね。僕は音楽をやっているので、ライブをするにもやっぱり東京で暮らしてた方がいいなと思います。あと、音楽を聴く、アーティストを観に行くという環境も、東京の方が圧倒的に整っているので。ブルーノート東京とかにも、行こうと思えばすぐ行けるじゃないですか。すごく贅沢ですよね。

この地域でも少しずつ音楽環境が整ってきて、音楽をやってる人も多いですよね。ライブをやれる場所も増えてきてる。

―そうですね、富岡町でもライブを開催している人がいますね。いつかタイミングが来たら移住という選択もアリですか?

中久喜:移住となると、それは正直わからないですね。住民票を移せば、日本中どこに住んでもいいと言っても、あまり土足で踏み込みすぎるのもなって思うんですよね。町おこしのような活動をしている人と、地域の人との距離感をどうするかっていう話になって。その人は「地元の人たちに敬意をもちつつ、ある程度の距離は取らないと客観視できなくなっちゃう」と言っていて、なるほどそういう見方もあるんだと思いました。

―これから富岡町とどう関わっていきたいですか?

中久喜:社会的メッセージを発信するのをやめて、完全に応援に回ろうと決めてからの自分って、“富岡劇場の最前列の客”だと思っているんです。自分がアクターになることはないけど、最前列でかぶりついて観てます。この町で起こる、良いことも悪いことも最前列で見てきました。最も近くにいる観客みたいな。そのくらいのスタンスでいるのがいいかなと思っています。

この場所で、カッコいい大人に出会った

―富岡劇場で、これからどんな演目を観たいですか?

中久喜:居酒屋が増える演目(笑)。あと、個人的には音楽の拠点としての富岡町。もしそうなれば、僕もその時はアクターとして音楽で貢献したいです。

―中久喜さん、先日富岡で演奏されましたよね? どうでしたか?

中久喜:もうね、最高でしたよ。本当に。ライブやらせてもらったのが2023年。富岡を初めて訪れたのが2013年。ちょうど10年だったんですよ。10年前のあのときは、ひっくり返った車がゴロゴロあったり、車道に牛が飛び出してきたりして。10年前のあの頃、こんな未来が訪れるとは思ってなかったから、感無量でしたね。「ここで今、歌を歌えてるよ。すごいな!」と。自分も10年間で変化してきたけど、町も進化してますよね。

そのライブで、富岡に住んでいる除染作業員の方かな? その人がウクレレを弾いてくれて。「除染関係の仕事で富岡町に来ています。もっともっと、この町をきれいにしますんで」と言ってて。僕、復興とか復旧とか、支援とか、そういう言葉が好きじゃなくて。どこか無責任さを感じていたし、軽い言葉だなって思ってた。復興という言葉は特に嫌いだったんですけど、“きれいにする”ってむっちゃカッコいいなと思って。ものすごい目をキラキラさせて「もっときれいにしますんで。がんばります」って。今思い出しても鳥肌が立ちましたよ。こういう素敵な人が集まる町なんだよなって、なおさら富岡町のことが好きになりましたね。

カッコいい人といえば、町おこしのワークショップに参加したときに「富岡の美しいところってどこですか?」って質問されたんですね。僕はそのとき「海かな」って答えて、他の人は「やっぱり桜かな」って答えてて。そんな中、さっき話した「富岡町を諦めない」って話してくれた人は、「この場が美しいじゃないですか」って答えたんです。桜も海も、言ってしまったらどこにでもあるじゃないですか。この町特有ってわけじゃない。「ここにこうやって、素敵な人がたくさん集まって、町の未来の話をしている。これが絶景じゃないですか」って。マジでカッコいい! その人とはよく一緒に飲みに行く仲なんですけど、この人、酔っ払ってるばっかじゃなかった(笑)。もう一生、この人についていこう、ずっと富岡町のファンでいようって思いました。


中久喜さんにとって「カッコいい大人がいる」ということが、富岡町に足を運び続ける理由なのかもしれない。以前、移住者インタビューで「故郷への愛をもった大人たちの背中を見せながら、子育てできるのはとてもすごいこと」と答えてくれた人がいた。衝撃を受けたのを今でも覚えている。私には全くなかった視点だった。共通するのは「人」。愛情深い人たち。「こんな町、一刻も早く出ていきたい!」と思っていた子どもの頃の私では気づけなかった、カッコいい大人たちの背中を、この町で探していきたい。

文/遠藤真耶
写真/中島悠二

中久喜 匠太郎(なかくき しょうたろう)

埼玉県生まれ東京都在住。ネット予備校の英語講師を生業とするかたわら、音楽(Vo&G)、写真、日本酒(唎酒師)、ビール(ビアテイスター)など雑多に活動。フットワークが軽く、日本全国どこもが自分の遊び場だと勘違いしている。富岡町と同じくらい北海道稚内市にも足を運んでいることは、富岡の方々には秘密にしておきたい。

SNS:https://www.facebook.com/shotaronakakuki/

 

フォトグラファー:中島 悠二(なかじま ゆうじ)

1981年 神奈川県川崎市生まれ。2009年からフリーの写真家として活動。2021年8月、東京から福島県楢葉町(海のそば)へ移住。現在、東北沿岸から北海道道東まで、海沿いの風景を撮影中。www. sunagomikusa.com